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〒337-0016 埼玉県さいたま市見沼区東門前295-13 ・

NYUZELESS ニューズレス 撥水 ビッグ 2way チェスターコート 定3.1万 オレンジ 1▲029▼90903k07





NYUZELESSニューズレス撥水ビッグ2wayチェスターコート定3.1万オレンジ1▲029▼90903k07
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NYUZELESS ニューズレス 撥水 ビッグ 2way チェスターコート 定3.1万 オレンジ 1▲029▼90903k07









商品詳細
コメント■NYUZELESS(ニューズレス)
2015年スタートの日本のダウンウェアブランド。
WORK?MILITARYをベースにヴィンテージの要素をダウンに落とし込み、デザインは新しくなくても機能素材を融合させることで新しく、現代風に再構築。
設立者の田邊昌博氏から生み出されるダウンウェアは、鳥や動物の機能に恩恵を被るようなウェアに興味をもち、ダウンやムートンの仕事をしていたバックボーンがあり、安心感も絶大となっている。

water repellent big 2way chester coat
撥水性のある生地感で着心地軽やかなジャケット。
付属のバッグに入れて持ち歩きも可能です。
スナップボタンが2つ付いており、身幅のサイズ感を変えることができます。


メーカー希望小売価格はメーカー商品タグに基づいて掲載しています生産国中国製
サイズ1
実 寸着丈96cm 身幅61cm 肩幅58.5cm 袖丈60cm

 ※誤差はご了承くださいませ。カラーオレンジ
素 材本体 ポリエステル100%
バッグ ポリエステル100%
付属品下げ札
参考定価31,320(値札)
商品状態新品?未使用品
※素材特有?展示による微細な擦れや小傷、保管?梱包に伴う皺等はご了承ください。

商品詳細

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日本キリスト教団 七里教会

日本キリスト教団 七里教会(ななさと きょうかい)のホームページにようこそ!


「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編3節)

「幸いな人生」とは神と共に歩むことです。
詩編1編3節は、私たちのいのちは神と共に歩むことにあると教えています。
「流れのほとりに植えられ」豊かな実りを約束されている木のように、神と共に歩む者は「すべて、繁栄をもたらす」と教えています。
何故でしょう?何故なら「その人は流れのほとりに植えられた木」すなわち、その人の歩みは常に神の恵みの中にあるからです。どうぞ七里教会にお出でください。


 5月31日(日)から礼拝と聖書研究・祈祷会を再開しています。
 礼拝は簡略化した形で行います。みなさんの霊性、健康、お働きが守られ、ますます祝福されることをお祈りいたします。

 来会時のお願い
①来会者は必ずマスクを着用してください。受付で手指のアルコール消毒をしてください。また席を空けてお座りください。窓は開けて換気を行います。
②体調のすぐれない方、熱、咳などの症状のある方は出席を控えてください。ぜんそく等の方は申し出てください。賛美は大きな声を出さないでください。
③緊急事態宣言が解除されましたが、まだ新型コロナ菌がなくなったわけではありません。感染者が顕在化していないだけです。自分が移されないだけでなく、自分が移さないためにどうすべきか行動いたしましょう。

 次週礼拝予告      
 2020年10月18日(日)午前10:30~11:45
聖 書:  コリントの信徒への手紙ⅰ12章12~31節
説 教:  「キリストの体なる教会 その1」
説教者:    小林則義 牧師
讃美歌:  27 390 409 28 


説教導入
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エフェソ書2章10節口語訳)

 エフェソ書2章10節でパウロは「わたしたちは神の作品です」と言っています。私たちは、「神の作品」です。作品であって、製品ではありません!製品は工場で大量生産されるもの、製品は同じ機能、同じデザインのものが大量生産されるもの、それが製品です。
作品とは芸術家が一つひとつを心を込めて、愛を込めて、丹精を込めて造り上げたものです。ですから一つひとつがみな違っているのです。だからとても大切です。神様は私たち一人ひとりを心を込めて、愛を込めて、丹精を込めて造ってくださいました。

 ですから、私たちは、一人ひとりはみな違っています。顔も、背の高さも、性格も、能力も、あるいは歩んできた人生も、みな違っています。そして違いがあるということは、良いことであり、素晴らしいことだと思います。何故なら私たちは一人ひとりが神様から見て特別な存在だからです。私たちは神様から見て「only one、ただ一人の大切な人」です。私たちは自分らしさを発見し、自分らしさを伸ばしていけば良いのです。



「水泳指導員不合格記」2020年9月のメッセージ
 私はかつて、水泳指導員を目指していた時がありました。なぜ水泳指導員を目指していたかというと、当時勤めていた都立養護学校(特別支援学校)で水泳指導を担当していたからです。私の30代後半から40代は水泳に熱中した時でした。学校の水泳指導の担当であり、地元のスイミングスクールにも通い、マスターズの水泳大会にも出ていました。そんなこともあり、どうしても水泳指導員になりたいと思った訳です。学校での水泳指導に「箔がつく」と思ったからです。それで日本水泳連盟の講習会に参加したり、自分でも相当練習をいたしました。

 そして水泳指導員の試験に臨みました。確か千駄ヶ谷の東京都体育館のプールだったと思います。学科試験は受かりました。救急救命法の実技も受かりました。後は実技試験です。まず100メートルの個人メドレー、4泳法の試験ですが、これも制限タイムをクリヤーして受かりました。次は25メートルの潜水、25メートルプールの端から端まで潜水で行くのですが、これも受かりました。最後は日本泳法の横泳ぎ、25メートルを規定の回数で泳がなければなりません。なんと1回オーバーで不合格でした。この後私は、不合格の横泳ぎだけの試験を3、4回受けましたが、すべて1回オーバーとかプールの壁に足が触れたとかで不合格でした。あと一歩なのにといつも悔しい思いをした訳です。

 最後の試験を受けたときでした。試験官は何を勘違いしたのか、私に合格を出したのです。1回オーバーしただけだし、合格もらってもいいかなと一瞬思いました。しかも試験は年に2回しかありません。次の試験は6か月後です。でも私はここで合格をもらう訳に行かないと思いました。私は後で試験官に「私は1回オーバーしました」と告白しました。私は不合格になりました。その後私は仕事が忙しくなり、試験を受ける機会はなくなってしまいました。

 今考えてみますと、私はあの時、水泳指導員のレースには負けました。でも人生のレースには勝ったんだなと思っています。今も信仰の恵みを味わうことができていますし、今こうして牧師としての働きをさせてもらっています。感謝です。

 私たちは、人生のレースを走っています。永遠の天の御国に凱旋するという人生のレースを走っています。そのレースにもルールがあります。パウロという人はこう言っています。
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(ⅰコリント書11章1節) つまり、それは「キリストに倣う」 ということです。

「w.w.j.d」 と言うことばがあります。アメリカへ行くと、この文字の入ったリストバンドやブレスレット、またtシャツを着ている人がいます。ステッカーとして車に貼っている人もいます。意味は「what would jesus do?」(もし主イエスだったらどうするだろう?)の略です。お守りとして持っている人もいますが、悩んだり、選択を迷う時、このことばは、自分にとって最善の答えを自分に問いかけることになります。

 私はかつて携帯電話に、パソコンに、車のハンドルにこのステッカーを貼っていました。「キリストに倣う」 とは「w.w.j.d」 「what would jesus do?」(もし主イエスだったらどうするだろう?)と自分に問いかけることだと思っています。



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「本当の平和」2020年8月のメッセージ
 8月5日は私が以前いた群馬の前橋大空襲があった日です。前橋は1日で焼け野原になりました。次の日、8月6日は広島に原爆が落とされた日です。9日は長崎に原爆が落とされた日です。そして8月15日は敗戦の日です。ちなみに浦和、大宮は4月の13日から14日未明にかけて大きな空襲を受けたそうです。8月は平和を考える月です。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカによる福音書12章51節)
 これは主イエスのことばです。分裂とは何でしょうか?分裂とは、お互いの考えが違うため、別れてしまうことです。そこに、争いや衝突があることもあります。主イエスの望みは、みんなが仲良くなることではなかったでしょうか?平和になることではなかったでしょうか?
聖書のいう平和は、ヘブル語でシャロームです。シャロームは単に戦争がない、争いがない、という状態ではありません。心の底から、魂の底から、平安を確信し、湧き上がってくるような喜びをいいます。シャロームとは、単に戦争がない、争いがない、という状態ではなく、よりダイナミックな心の状態をいいます。ですからそれは神による平和です。

 もし力のある人が立場の弱い人に「文句を言うな、黙っていろ」と脅したとします。何も知らない人が外から見ると、争いもなく、一見平和です。しかし、それは見せかけの平和です。私たちが、本当の平和を造り出そうと努力すれば、そこには、大変なこと、苦しいことが沢山あります。分裂が起こることもあります。本当の平和を造り出そうと働こうとして、苦しんだ人は沢山います。主イエスは本当の平和をもたらすために来たのです。

 田中正造という人もその一人です。田中正造は1841年現在の栃木県佐野市に生まれ、当時盛んだった自由民権運動に参加していきました。栃木県と群馬県の境には渡良瀬川があり、渡良瀬川の上流に大きな足尾銅山がありました。この足尾銅山から、洪水があるたびに鉱毒が流れ出し、流域の田畑にかぶさり農作物に大きな被害を与えていました。また人々の健康にも大きな被害を与えていました。
国会議員になった田中正造は、この問題を取り上げ、苦しむ農家の人たちのために対策を立てるよう求めました。しかし、政府も、銅山を経営する古河財閥も何もしませんでした。何もしないばかりか警察を使って反対運動を起こす人たちを捕えて投獄しました。つまり「事を荒立ててくれるな」ということでした。
 憤りを感じた田中正造は、国会議員を辞め、1901年12月、明治天皇の乗る馬車に駆け寄って、足尾銅山の銅の採掘をやめさせるよう直訴しました。正造は警察に捕まりました。しかし、このことによって、世の中に、広くこの問題が知られるようになりました。政府はやっと対策を立てるようになったのです。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」 田中正造のことばです。

 本当の平和をもたらすために、今までになかった分裂、争い、衝突が起こることがあります。それはつらいこと、苦しいことです。しかし、それらを通して、初めて本当の平和が訪れるのです。主イエスは言われました。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる5章9節)



「受けるよりは与える方が幸いである」2020年7月のメッセージ
 二宮尊徳の話に「お風呂の教訓」というのがあるそうです。「だんな様、湯加減は如何ですか?」下男が焚口に薪を入れながら声をかけました。「ああ、いい湯だよ。ちょっとこれを見てごらん」との声に下男が立ち上がってのぞいてみると、尊徳は両手でお湯を自分の方にかき寄せる仕草をしています。
 そしてこう言いました。「お湯を両手で自分の方にかき集めようとすると、やってきたお湯は脇からどんどん逃げてしまう。でも反対にお湯を向こうに押し出すと、知らず知らずにお湯が回って、自分の方に集まってくる。我々の生き方も同じで、自分のことばかり考えて欲張っていると、人が離れ、物を失ってしまうが、人々に尽くせば必ず自分も幸せになれるものだ」と教えたといいます。

 自らのために計らって、人のために計らうことをしないと、次第に人が離れて行ってしまい、やがては物も失われてしまうと尊徳は教えたわけです。

 このお風呂の教訓ですが、旧約聖書の箴言にも似たことばがあります。「散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」(箴言11章24節25節)
 聖書のことばは、与えることは損で、受けることは得だ、という考えが、実は反対であると教えています。

 視点を変えることにより、ものの見方、考え方が変わり、まったく新しい世界が見えて来ることがあります。聖書は、私たちに新しい視点を与えてくれる書物です。私たちのものの見方、考え方を変えてくださり、まったく新しい世界を見せてくれます。パウロは主イエスのことばとして「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節 )と言っています。

 主イエスが活動されたイスラエルには2つの大きな湖があります。一つは北にあるガリラヤ湖です。もう一つは南にある死海です。この2つの湖はヨルダン川でつながっています。ガリラヤ湖はヘルモン山を源流とするヨルダン川のきれいな水に地下水も加わって、水量豊かな美しい湖です。周囲は緑に囲まれ、多くの魚が住み、周囲の住民にとって生活に欠かせない恵みの湖です。主イエスもこの湖を愛され、ガリラヤ湖畔の町々を伝道して歩かれました。
 ガリラヤ湖は流れ込んだ水に地下水も加わって、受けたより多くの水をヨルダン川の下流に流しています。

 その水を受け入れているのが、もう一つの湖の死海です。死海は海抜マイナス400ⅿ、世界で最も低い地点にある湖です。そこに流れ込んだ水はどこにも行き場がありません。死海は水を受け取るだけで、たまった水は熱帯性の高い気温で蒸発していきます。そのため死海の水はどんどん濃くなって、その塩分は海水の10倍と言われています。ここでは生物は生息できません。周囲も荒涼とした岩塩に覆われています。まさに死の海となっています。

「死海のような人ではなく、ガリラヤ湖のような人になりなさい」イスラエルにある諺です。ガリラヤ湖は多くの水を受け取りますが、地下水も加え、それ以上の水を流します。しかし死海は、ただ受け取るだけで、与えようとしません。ため込むだけです。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節) 主イエスはイスラエルの自然を見ながらこう教えたのでしょうか。流れ込む水も地下水も神の一方的な恵みです。



「綱渡りの人生」2020年6月のメッセージ
 アフリカのサハラ砂漠にサハラギンアリというアリが棲んでいます。このサハラギンアリのえさ探しは独特です。わざわざ1日の中で最も暑い昼間に行われるからです。サハラ砂漠の昼間の地表温度は摂氏50度に達する厳しさです。このアリは4分以上地表にいると死んでしまいます。ですから4分間だけがえさ探しの貴重な時間です。では、何故わざわざ1日の中で一番暑い時間帯を選んで命がけのえさ探しをするのでしょうか?朝夕の涼しい時間帯では駄目なのでしょうか?

 その理由は、天敵の存在です。天敵であるアリクイトカゲの攻撃から身を守るためです。もし、地表温度が45度以下の時に巣を出てエサを探していますと、自分がアリクイトカゲのえさになってしまいます。ところが、45度を超えますと、アリクイトカゲは巣にとどまって、えさを捕るのをやめるのです。
ですから、アリクイトカゲが自分の巣から出てこなくなる45度と、自分が死んでしまう危険な50度の温度差を利用して、「鬼のいぬまのいのちの洗濯」ならぬ、えさ探しをしているのです。しかも4分間だけです。

 サハラギンアリは、このようにわずか4分間という時間で自分のいのちを保っているのです。砂漠という厳しい環境で、生き残るために、何という「綱渡りの人生」でしょうか?私たちの中には、これほどの極端な「綱渡り人生」を送っている人はいないでしょう。

 しかし、私たちの人生も、あっちに誘惑、こっちに罠、あっちに危険、こっちに混乱というように悪といえる存在の中を歩んでいます。悪は目に見えません。ときに善良という仮面をかぶっています。実際、今、私たちは、あっちにコロナウイルス、こっちにコロナウイルスと感染のリスクの中を生きています。ですから、私たちの人生もある意味で「綱渡りの人生」かもしれません。私たちは神様が共におられたから、「綱渡りの人生」をここまで歩んでこられたのです。神様に教えられたこと、ときにやさしく諭され、ときに厳しく叱責されたことを感謝いたしましょう。神様に導かれてきた信仰人生を感謝いたしましょう。

 ひとりの植物学者が案内人とその子どもを連れて、植物採集のために山野を歩いていました。そして途中、険しい崖の中ほどに珍しい花が咲いているのを見つけたそうです。植物学者は「これは珍しい花だ、是非採集したい」と言いましたが、どうしてもそこに行けません。案内人に頼んでも「先生、無理です。これより先にはとてもいけません」と言われました。すると、ふたりについてきた子どもが「お父さん、僕に縄をつけて、お父さんが持っていてくれたら、あそこに降りて行って、採ってくるよ」と言ったそうです。縄をつけた子どもは安心して採ってきたのです。

 コロナ禍の中を歩んでいる私たちですが、守るべきことをしっかり守り、心のうちに示された良いことを一つひとつ行っていきましょう。どんな「綱渡りの人生」も神様につながっていれば大丈夫です。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ福音書15章5節)



「成長させてくださる神」2020年5月のメッセージ
 みなさん、私たちは成長を続けるにはどうしたらよいのでしょうか?主イエスは言われました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ福音書15章5節)
 私たちは成長を続けるには、神様とつながっていなければなりません。

 今から百年前にひとりの女の赤ちゃんが生まれました。生まれて間もなく熱病のために耳が聞こえず、目も見えず、しゃべることもできなくなりました。赤ちゃんは重い障害を持ってしまいました。この赤ちゃんは言うまでもなくヘレン・ケラーです。彼女はしつけられることもなく、教えられることもなく、導かれることもなく、まるで野獣のようにふるまっていました。そんな時、ひとりの家庭教師と出会います。アニー・サリバンです。

 有名な話ですが、サリバンはヘレンと散歩中に井戸に立ち寄りました。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「w-a-t-e-r」と指文字で何度も綴っていました。すると、突如としてヘレンはことばと物を結びつけ、すべての物に名前があることに気が付いたのです。その時のことをヘレンは神が啓示してくれたと言っています。その後ヘレンは次々とことばを覚えていきます。
 そして、サリバンはヘレンに「愛」ということばを教えます。これも感動的な場面です。ヘレンは、庭にさいている花をみつけ「そうだ!サリバン先生に あげよう」と思いサリバンのところに持って行きます。すると、サリバンは喜び「私は、ヘレンのことを愛しています」と指文字で示しました。でも、ヘレンには、愛というのがわかりませんでした。「愛とは何ですか?」「愛って花の香りのこと?」「愛って太陽のあたたかさのこと?」と聞くと、サリバンは、愛は「あなたが今考えていることだよ」と教えてくれました。そしてヘレンは「神」ということばも学んでいきます。

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彼女は後になってこう言っています。「私は自分のハンディキャップを神様に感謝しています。このことによって私は自分自身を見出し、自分の仕事を見出したからです」

 ヘレン・ケラーが生まれる数年前、家族のいない一人の少女がボストンにある精神病院に入院していました。父はアルコール依存で亡くなりました。その後母も亡くなり、たった一人の弟も亡くなりました。さらに少女は病気で目がほとんど見えなくなりました。少女は家族も、健康も失い、まさに廃人のような生活を送っていたのです。
 その時、一人のクリスチャンの看護師が、忍耐強い愛をもって治療してくれたのです。何と次第に少女の心の病は癒されていったのです。やがて、彼女は自分が受けた、愛やいたわりを同じ障害を持った人たちに分け与えたいと願いました。そして盲学校の先生になろうと決意したのです。この人こそアニー・サリバンです。そして、数年後、あのヘレン・ケラーの家庭教師として派遣され、彼女を全く別の人間として生まれ変わらせました。

 みなさん、私たちはどこまで成長することが出来るのでしょうか?もちろん、ヘレン・ケラーやアニー・サリバンの領域までです。いやいやもっと上までです。キリストの似姿まで成長することが出来るのです。それはキリストの心を心とするからです。
 「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(ⅰコリント3章6節)



「復活のいのちに生きる」2020年4月のメッセージ
 以前、親しくお付き合いをしていた兄弟は50代の若さで天に召されていきました。病院を見舞ったあるとき、彼は私を見つめて突然こう言いました。「小林さん、僕は死んでも天国に行けるよね!」「僕は救われているよね!」彼の顔はとても真剣でした。私はあわてて聖書を開き「もちろん天国に行けるよ!」「だって聖書にちゃんと書いてあるよ!」「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と書いてあるよ。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」と書いてあるよと言いました。

 彼は、お付き合いしていた彼女もがんで天に召され、今、自分もがんであると宣告され、一人ぼっちで死に直面していたのです。私たちは聖書を読み祈り合いました。私は彼の肩に手を置いてこう祈りました。「天地万物を造られた神様が信仰を強め、この病気を通して知らせて下さる神の恵みと天国への確信を感謝します」祈り終わって、彼の顔を見ると、彼は目にいっぱい涙を浮かべていました。そして平安に包まれた表情で、「有難う」と言って握手をしてきました。それからしばらくたって、彼は天国に召されていきました。

 人生、もし生きている間がすべてだとしたら、病ゆえの死は絶望と虚無そのものです。生きている間が勝負だとしたら、病ゆえの途中降板は悔しさと敗北感が募ります。オリンピックの金メダリストは「夢がかないました!」と叫びます。しかし、人生の夢が計画通りに実現できる人は一握りです。多くの人たちは国内の予選でふるい落とされてしまいます。金メダリストは世界で一人だけです。しかし、その金メダリストでさえ、何かをやり残して人生を閉じるのではないでしょうか。

 聖書には、競技者に相当する信仰の勇者がたくさん登場します。その人たちの人生の評価はこう記されています。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(へブル人への手紙11章13節)
 夢が破れても、なお、約束がある!聖書は私たちにそう語っています。高い志を立てて、一生懸命歩みながら、メダルどころか、何も得られなかった人たちに対して、用意されているものがあるのです。それは、病の故に人生の表舞台から途中降板した人にとっての約束でもあるのです。何かをやり残して人生を閉じざるを得なかった人にとっての約束でもあるのです。先ほどお読みしました、へブル人への手紙11章13節の続きはこうなっています。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(へブル人への手紙11章16節)

 肉体の死を持って「the end」人生の幕引きではないのです。「もっと良い、天にあるふるさと」とは、たましいが最終的に向かうところです。そのこころは、あなたを、十分に評価してくださるところが、きちんとあるのだ!ということなのです。あなたは、途中降板だと思ったかもしれません。あるいは夢破れたりと思ったかもしれません。しかし、そんなあなたに「よくやった!あなたの人生は敗北ではない!」ときちんと評価してくださるところがあるのです。それこそ、聖書が語る、最終的な慰めであり、約束なのです。



「互いに重荷を担いなさい」2020年3月のメッセージ
 私が小学生の時、よく全校集会というのが月曜日の朝にありました。そして全校集会が終わった後、全員が校庭に横一列に並んで、そして横一列に歩きながら、校庭の石拾いをしました。そして石を一カ所に捨てました。人海戦術です。年に何回か全校生徒で石拾いをした訳です。とくに運動会の前にはよくやったことを覚えています。みんな裸足で走りますから石が無いようにしました。小学生の時、この石拾いを一人でやったら大変だと思っていました。

 神学生の時、学校では週に一回、農業実習というのがありました。神学校にはめずらしい授業です。神学校は森の中にありました。森があり、林があり、里山のような所にグランドがあり、畑があり、果樹園や茶畑までありました。農業実習で一番大変なのは広い畑の草取り、雑草取りです。これもなぜか小学校の石拾いのように、神学生が横一列になって、広い畑の草取りをしました。一人でやったら何日もかかる仕事を、1時間とか2時間で終わらせました。みんなでやるから出来ることなんだなとつくづく思いました。

 パウロという人は「互いに重荷を担いなさい」と命令しています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤ書6章2節)「互いに重荷を担いなさい」「そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」キリストの律法、つまりキリストの命令を全うするのです。それは、互いの重荷を負い合うことです。この「重荷」とは文字通り、「重圧」です。「肩に食い込む、背中にずしりと重い」重荷のことです。

 今、みなさんは重荷を背負っておられますか。人に言える重荷と、人に言えない重荷が、誰にもあると思います。人に言える重荷はできるだけ人に知らせて、お互いに祈り合い、お互いに支え合うことが特に大切です。私たちはさまざまな重荷を背負います。次から次へと、よくこれだけ重荷が続くものだと思うほど、重荷を背負います。50になる。60になる。あるいは70になる。80になる。年を取るということは言い知れない重荷かもしれません。私も最近、「五十肩」ではないかと思えるほど、肩が回らなくなりました。「頚椎症」で文字通り首が回らなくなりました。冬でも毎朝ジョッキングをしていますが、最近億劫な時があります。体が衰える、病気を持つ、子どもの問題、夫婦の問題、親戚の問題、親のこと、生活上のこと、私たちはさまざまな重荷を負って生きています。私たちは、お互いに祈り合い、お互いに支え合うべきです。パウロは「互いに重荷を担いなさい」と言っています。

 カナダで、男の子が行方不明になりました。両親が手を尽くして捜しましたが見つかりませんでした。3日目に、ある人が町中の人に集まるように呼びかけました。その行方不明になった男の子の家の裏には、どこまでも続く草原が広がっていました。そこで町中の何百人という人が横一列に並び、全員で手をつなぎ、その草原を歩きました。そうやって男の子を捜し当てました。しかし、残念なことに、男の子は既に冷たくなって死んでいました。その時、男の子に駆け寄った両親が叫んだことばは何でしょう。「ああ、もっと早く手をつないでいたら。もっと早くみんなで手をつないでいたら・・・」ということばでした。(2月の礼拝説教より)



「キリスト者の自由」2020年2月のメッセージ
 礼拝で「ストーン宣教師物語」をお話しいたしました。1954年ストーン宣教師は洞爺丸の海難事故で殉教されますが、その時ストーン宣教師から救命具をもらった青年はその後どうなったのでしょうか。後日談ということばがありますが、その青年はどうなったのでしょうか?正確なことは分かりません。三浦綾子の小説「氷点」やいろいろな本を見ますと次のようになっています。

 嵐に船が大きく傾く中、ストーン宣教師は乗客に救命具を手渡すなど、献身的な救助活動を続けました。そんな中で、彼は、まだ救命具を身につけていない一人の青年に目が止まりました。すると彼は、自ら身につけていた救命具をはずし、「あなたはわたしより若い。これからの日本はあなたたち若い人がつくりあげるのです」といって、この青年に自らの救命具を譲り渡したのです。そして、ストーン宣教師は「もし、あなたが助かったら、十字架の掲げられている教会を訪ねてください」と言い波間に消えて行きました。

 救命具をもらった青年はその救命具故に波間に漂い、救助隊に救出されました。やがて病院に運ばれた青年は少し良くなると、宣教師のことばが気になって、教会を訪ねます。十字架の掲げてある教会を訪ねます。そしてそこの教会の牧師に「あの十字架の意味は何ですか」とたずねます。牧師は唐突な質問に驚きながらも、聖書から、神が私たちを愛し、救い主を送って下さり、私たちの罪の身代わりになって十字架で死なれたことを話しました。それを聞いた青年は涙を流し「わかりました。私もイエス・キリストを信じたいと思います」と言います。びっくりする牧師に青年は事の次第を話したということです。

 みなさん、もしこの助けられた青年が、ストーン宣教師のことなど忘れて、自己中心の勉強をし、自己中心の仕事をし、自己中心の生涯を送ったのならばどうでしょうか。青年の命を救うために自分の救命具を与えたストーン宣教師は悲しまないでしょうか。ストーン宣教師だけでなく、ストーン宣教師の働きを導いたイエス・キリストは悲しまないでしょうか。助けられた命を、いたずらに自分のことだけに使ったのなら、どんなに悲しむことでしょう。

 実は、パウロという人の気持は、まさにそういう気持ちです。パウロというより、イエス・キリストが、私たちを奴隷の束縛から解放し、自由を与えるために命をかけた、命を捨ててくださったのに、依然として、同じ生活をしている、罪にとらわれていることを知ったのなら、どんなに悲しまれることでしょう。

 パウロはまず、大声で、イエス・キリストによる救いの宣言と、そして激励をしています。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ書5章1節)
過去の歴史においてに一度限りの出来事として、イエス・キリストが私たちに自由を与えてくださった。解放してくださった。それは言うまでもなく西暦33年、カルバリ―の丘の十字架でのイエス・キリストの死をパウロは指しています。あの十字架の死によって、私たちは罪の赦しと自由をいただいたのです。「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。」
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「希望は失望に終わらない」2020年1月のメッセージ
 人は生きていくうえで希望を持つ必要があります。人は希望を持たなければ生きていけません。多くの人は希望を持とうとします。しかし、なかなか希望が持ち得ません。また持ったとしても、あっという間にしぼんでしまうことがあります。自分に勢いがあったり、自分の家族に勢いがある時、あるいは毎年物質的に豊かになれると実感した時、人は希望を持つことができるかもしれません。しかし、自分の勢いや、物質的豊かさを基とする希望は、すぐにしぼんでしまいます。そのことは、私たち、そして日本の国が経験したことです。

 決して失望に終わらない希望、それはどこにあるのでしょうか?パウロという人物は希望を持つことのできない状況、困難、迫害の連続の中にいた人物です。その彼は「この希望は失望に終わることはない」と言っています。パウロは何故こんなことが言えたのでしょうか?

 イエス・キリストは、人のあらゆる罪、痛み、苦しみを背負って死なれただけでなく、その死から復活されました。つまり罪と死に勝利されたのです。 パウロは困難や迫害に遭いながらも、彼の希望は失望に終わることはありませんでした。何故ならば、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、パウロには罪と死に打ち勝つ力、つまり希望が与えられていたのです。この希望を持ったパウロは
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ書5章3~5節)と言っているのです。この希望は、苦難→忍耐→練達→さらに強い希望を生んでいくサイクルになるのです。もしこの希望を持たなければ、苦難→疲労→無気力→絶望のサイクルに陥ってしまいます。

 2010年8月チリで鉱山の落盤事故が発生しました。33名の作業員が地下700mに取り残されました。当初、彼らの生存は絶望視されていました。しかし事故から17日後、彼等の生存が確認されたのです。そして、世界中の人々が見守る中、69日ぶりに全員が救出されたのです。

 撥水 オレンジ オレンジ ニューズレス 定3.1万 NYUZELESS 2way 1▲029▼90903k07:CRAWLER 定3.1万 チェスターコート 撥水 ビッグ33名の作業員は地下700m、温度35度、湿度90%と言う過酷な空間の中で、どの様に生き抜いたのでしょうか?事故発生から17日間は、地上との連絡も取れず、なす術もなく、ただひたすら助けを待つだけでした。死をも覚悟せざるを得ない状況の中で、ひとりのリーダー、ルイス・ウルスアさんは「助けは必ず来る。絶対に希望を失うな!」と仲間にくり返し言い聞かせ、また神に祈ったそうです。

 彼らが69日間、肉体的にも精神的にも守られた大きな理由は何か、それは、希望をもち続けたということです。希望があるから、耐え忍ぶことができた。希望があるから、秩序が守られた。希望があるから、規則正しい生活が保たれた。希望があるから、互いに仕えることが出来たのです。

 人は強い者が生き残ると思います。人は体の丈夫な者が生き残ると思います。しかし、それは間違いです。人は希望を持つ者が生き残るのです。人は主にある希望を持つ者が生き残るのです。イエス・キリストの十字架と復活による神の愛は、あらゆる苦難の中においても私たちに希望を与えていることを覚えようではありませんか!
                                     (元旦礼拝説教から)



「あなたの隣人は誰ですか?」2019年12月のメッセージ
 私は神学生の時、川崎戸手教会という教会で教会実習をいたしました。この教会は多摩川の河川敷に立てられた教会でした。実にみすぼらしい教会でした。しかし、そこは確かに教会でした。「エクレシア」としての教会、信じる人の集まりである教会、キリストの体としての教会でした。

 何故、河川敷に教会が立てられたかというと、その河川敷に在日韓国朝鮮の人たちが住んでいたからです。かつては羽田沖に住んでいた人たちは、そこを追われ、その多摩川の川崎戸手地区の河川敷に住み着いたのです。戦後何年たっても、在日韓国朝鮮の人たちはいろいろな面で差別をされてきました。そこに住まざるを得なかったのです。河川敷ですから、台風が来るとどうなるでしょうか?台風が来るとたちまち家は床下浸水、床上浸水です。時には流されてしまいます。

 そこに教会を立てたのは誰でしょうか?もちろん神様ですが、その手足となって、そこに教会を立てたのは私の恩師、関田寛雄という牧師です。彼は青山学院の教授でした。しかし、牧師として、在日韓国朝鮮の人たちを放っておけないと立ち上がった人でした。

 主イエスは有名な「よいサマリア人」のたとえ話をされました。「よいサマリア人」のたとえ話は、エルサレムからエリコに下る道での出来事です。エルサレムからエリコまでは約27㌔、1日の旅であると言われています。その道でひとりの旅人が盗賊に襲われ、傷つき、倒れていました。この傷付き、倒れていたのは同胞であるユダヤ人であるのが暗黙の了解です。

 最初にやって来たのは祭司でした。祭司は律法の専門家です。この人は傷ついている同胞を見て、反対側を通り過ぎて行きました。これは私の隣人ではないと決めたのです。次にやって来たのはレビ人でした。レビ人も神殿に仕える律法の専門家です。彼も傷ついている同胞を見て、これを無視し、反対側を通り過ぎて行きました。彼もこれは私の隣人ではないと決めたのです。次に来たのがサマリア人です。このサマリア人がたとえ話の中で、傷ついている見ず知らずのユダヤ人を助けるのです。サマリア人はユダヤ人から差別されていました。差別されているサマリア人が差別しているユダヤ人を助けたのです。

 主イエスはたとえ話の最後でこう言われました。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(ルカ福音書10章36節)

 みなさん、隣人とは誰でしょうか?みなさんは隣人とは誰かと尋ねられたらどう答えるでしょうか?多くの人は隣の家の人が隣人と思っているかもしれません。友人知人を隣人だと思っているかもしれません。

 「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節)その隣人とは誰でしょうか?隣人とは、この人は私の隣人だ。あの人は私の隣人ではない。と自分で決めるものでしょうか?そうではありません!自分で選択するものではなく、自分がなさなければならないことをなす人が隣人なのです。たとえ行きずりの人でも、たとえ差別されていても、自分がなさなければならないことをなす人が隣人なのです。隣人は愛によって生まれるのです。隣人は親切によって生まれるのです。主イエスは言われました。
「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章37節)



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「美しく老いる」2019年11月のメッセージ

 ある人が、高齢者の生理と心理を次のように言いました。「しわが寄る、ホクロができる、腰が曲がる、忘れやすくなる、ひげが白くなる、手は震える、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目も疎くなる・・・聞きたがる、寂しがる、心が曲がる、くどくなる、気短になる、世話やきたがる、達者自慢になる。」私自身も、まだまだ大丈夫と思っていましたが、だいぶ当てはまると思います。

 またある人は、高齢期は「喪失の時代だ」と言いました。「悲しいけれど、若さを失い、体力を失い、職を失い、収入を失い、楽しみを失う。妻や夫、家族まで失って、最後には自分のいのちまで失う。そのうえ愛も感動も、慎みも失ってしまう。」

 違う!高齢期はそんな薄汚いものとは違う!こういったのは私の恩師、植竹利侑(うえたけとしゆき)という牧師です。植竹牧師は
「高齢期はそんな薄汚いものとは違う!むしろ光り輝くものだ!私みたいなつまらない人間でも、ほんの少し精神的に生きてきただけで、年を取ってからの方が、万事素晴らしいのだ!昔十年かかったことが一年でできる。駆けずり回ってできなかったことでも電話一本で片が付く!同じ話をしても聞く人の姿勢が違う!同じ一日でさえも、密度が違う!体が衰えてみてはじめて、魂が人間なのだということが分かる!肉体の美しさが去って、はじめて心の美しさが分かる!肉体だけが資本なら、40歳はもう年寄りだが、精神が資本なら60歳はまだ少年の域を出ない!私みたいな宗教家の端くれでさえそうだから、本当に精神生活をした人の晩年はどんなだろう!」

 私たちは、いやおうなしに老いの悲しみを味あわなくてはなりません。しかし使徒パウロも言っています。
〈だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。〉(コリント信徒への手紙ⅱ4章16節)

 私たち人間には内と外の二面の生活があります。「内なる人」と「外なる人」の二面の生活があります。人間には心と体のほかに、神様と交わるところの霊があります。この霊のいのちのことを「内なる人」と言います。心と体のいのちのことを「外なる人」と言います。

 人間は誰でも「外なる人」は歳と共に衰えていきます。しかし、イエス・キリストを信じて、罪の赦しを得た人は、神様との交わりを回復して霊のいのち「内なる人」が生き生きとしてきます。このような人は神様と共にいますので、孤独や不安から解放されます。体力の衰えも気にならなくなります。そればかりではありません。みことばと祈りによって「内なる人」は日々新しくされていくのです。

「今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。」(ヨシュア記14章10節11節)
 こう言ったのは誰か?旧約聖書にでてくるカレブという人は85歳の誕生日にこう言って神様に感謝したのです。カレブも神様と共にあり「内なる人」が日々新たにされた人です。他人が見たら体力は衰えていたのかもしれません。しかし、そういってはばからない生き生きとしたいのちがあったのです。

 このような人は、やがてこの世を去る時も、栄光に輝く天の御国で、永遠に生きる希望に喜ぶのです。今は天に帰られた信仰の友、信仰の先輩も、「内なる人」が日々新しくされていった人たちです。
(永眠者記念・墓前礼拝説教より)



「祈りの手」2019年10月のメッセージ
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」
(マタイ福音書4章4節)
 こんなお話があります。今から500年前、ドイツの田舎に絵の大好きな若者が二人いました。一人はハンス、もう一人はデューラーと言いました。二人は仲のいい親友でもあり、将来一緒に画家になる夢を持っていました。しかし、二人はとても貧しかったので勉強するためのお金がありませんでした。二人は何か良い方法はないものかと考え、ハンスが言いました「いい考えがあるよ。まず、片方が働いて、お金を儲けるんだ。そして片方は絵を勉強し、絵が売れるようになったら、今度は交替して、片方を助ければいいんだ」

 どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。ハンスが言いました。「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が絵がうまいから、きっと早く勉強がすむと思う」ハンスのことばに感謝して、デューラーはさっそくイタリアのベネチアに行って絵の勉強を始めました。その間ハンスは働き続け、お金が入ると親友のデューラーにお金を送り続けました。

 それから月日がたち、やがてデューラーは勉強を終え、その絵は売れ、ベネチアでは名の知られる画家に成長しました。デューラーはハンスとの約束を忘れず、夢が実現したことを伝えるため、ドイツの田舎に帰って行きました。

 2人は再会を手を取り合って喜びました。ところが、デューラーは親友ハンスの手を握りしめたとき驚きました。そして涙が出てきました。彼はハンスがどれだけ犠牲を払ったか分かったからです。長い重労働のためにハンスの手は堅くなり、もはや絵筆を握ることが出来なくなっていたのです。けれども、ハンスは、にっこり笑って「おめでとう」と言ったのです。デューラーはただ頭を下げるだけでした。

 デューラーは、彼の夢を奪い、自分の夢がかなったことに、心が責められる日々を過ごしました。「何か自分にできることはないだろうか。彼に償いをしたい」そしてもう一度ハンスの家を訪ねました。ドアを軽くノックしましたが、応答がありません。でも、確かに人のいる気配がします。デューラーは恐る恐るドアを開け、中に入りました。

 するとハンスが静かに手を合わせて祈りをささげていました。「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。神様、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。私が果たせなかった夢を彼がかなえてくれますように。あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーとともにありますように」

 ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、祈りが終わった後、彼にお願いしました。「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされてきたのだ。君のこの手の祈りで僕は生かされてきたのだ。」

 アルブレヒト・デューラーは親友ハンスの手を感謝を込めて描きました。これが有名な「祈りの手」です。重労働で荒れはてたごつごつした手ですが、これほど美しい手はないと言われています。
 私たちも毎日の生活の中で、人の幸せを、隣人の幸せを祈りながら、小さい苦しみ、小さいがまんを快く受け入れたことがあると思います。このような苦しみ、がまんの中で喜びをもたらす人は、とても美しい人だと思います。このような人こそ「祈りの人」「神の口から出る一つ一つのことばで生きる人」だと思います。



「八ヶ岳、北岳登山記」2019年8月のメッセージ
 大学生の時、私は友人と八ヶ岳連峰を縦走したことがあります。信州の茅野から北八ヶ岳に入って横岳、そして主峰の赤岳と縦走しました。横岳まで来た時、何と台風と遭遇し山は大荒れになりました。横岳から赤岳に行く途中に鎖場がありました。文字通り岩に固定してある鎖を頼りに崖を渡って行くわけです。崖の深い底からは猛烈な風が吹き上げ「ゴォー」とうなり声を上げていました。まるで地獄の底を思わせる光景に身が縮みました。暗い谷底に木の葉のように舞い落ちたらと思うと恐怖に襲われました。

 やっとの思いで赤岳の山小屋にたどり着きましたが、その山小屋は台風の強烈な風でグラグラ揺れていました。まるで船にでも乗っているかのようでした。生きた心地がしません。次の日、風は収まりましたが、まだ雨は強く降っていました。私たちはその雨の中を清里駅目指して強行下山したのです。清里駅に着いたときの私たちの姿は、ボロボロ、グチャグチャの格好でした。

 私の若い時の登山は無謀とも思えるものがありました。そして今でも横岳から赤岳に行く途中の鎖場での光景は忘れられません。まさに「深い淵の底」を見た思いです。私たちは、魂の世界で「深い淵の底」がどのようなものか十分に知り得ません。そこは台風と遭遇した崖の深い底のようなものでしょうか。そこではもはや神に呼ばわる以外助けはないのでしょう。詩編の作者は「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」(詩編130編1節)と叫んでいます。

 それからまた私は友人と共に南アルプスの主峰北岳にも挑戦しました。北岳は日本第2の高峰です。確か1泊2日の日程だったと思います。ふもとの広河原まで車で行き、そこから登り始めました。標高2千mを超えるころから登りが一気にきつくなり、膝が上がらなくなり呼吸が苦しくなりました。しかし稜線に出るとそこはもう別世界、絶景が待っていました。まさに雄大で何とも言えない景色です。また雪渓もあり涼しげでした。さらに行くと今度は一面のお花畑が待っていました。そして登り切った北岳山頂から見る景色は壮大、荒々しくも美しい荘厳なたたずまいであったことを覚えています。

 そこに地球の造山活動のメカニズムを見るのですが、壮大で荒々しくも美しい山々を造られたのは誰か、この荘厳なたたずまいを造られたのは誰か、そこに確かに神の存在を見たのです。詩編作者は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121編1節2節)と言っています。まさにその通りでした。

 山に向かって目を上げる人は、人の限界を超えたはるかな世界への願いを持っていると言われます。アポロ宇宙船で月面着陸したジム・アーウィンは月面に立った時、宇宙万物を創造した神の存在をひしひしと実感したそうです。そして彼は牧師になりました。山はそれと同じように神を思わせるのでしょう。



「サーバント・リーダー」 2019年7月のメッセージ
 私が中高生の時、いわゆる「スポ根漫画」が全盛でした。その中で「巨人の星」という漫画がありました。主人公の星飛雄馬は、かつて巨人軍の三塁手だった父・星一徹により幼い時から野球の英才教育を受けます。プロ野球の巨人軍に入団後、ライバルの花形満や左門豊作らを相手に大リーグボールを武器に活躍するという架空の物語です。

 この物語の隠れた主人公は、飛雄馬の父、星一徹だと言われています。彼は以前川上哲治と並び称される選手でしたが訳あって退団し、その後は自分の息子、飛雄馬を一流の選手にすることに執念を燃やします。実はこの星一徹こそが旧来のリーダーの典型、叱咤激励型「俺について来い!」型だったのです。

 星一徹の口癖は「巨人軍という星座の中で、輝く星となれ!」ですが、まさに叱咤激励、自分の信念の押し付けでした。息子の幸せを第一に考えたのではなく、自分の夢、価値観の押し付けであったのです。自分の無念を晴らすため息子を利用しただけかもしれません。

 「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」(使徒言行録9章27節)

 回心したとはいえサウロは初代教会の迫害の中心人物でした。エルサレムのクリスチャンたちは誰も彼を信用していませんでした。サウロは教会の敷居をまたがせてもらえなかったのです。その時、間に入って交わりを回復させたのがバルナバです。

 バルナバ、その意味は「慰めの子」です。これはニックネームです。本来の名前はヨセフです。彼には「慰める」賜物がありました。自分の畑を売り払い、その代金を献金し、教会の貧しい人たちを支えたのです。バルナバは、迫害者だったサウロに代わって、サウロが主イエスと出会ったこと、本当に回心したこと、主イエスの福音を宣べ伝えたことなどを使徒たちに説明したのです。

 バルナバとは「慰めの子」という意味ですが、それは、もっと分かりやすく言えば「そばにいて助ける者」という意味です。バルナバは、サーバント・リーダーの典型だと言われています。サーバント・リーダーは、主イエスが手本であると言われています。サーバント・リーダーは、人を愛し、人に仕えて、その人の能力を引き出し、その人の能力を開花させるというリーダーです。旧来のリーダーシップは「俺について来い!」式でした。

 マルコ福音書の著者マルコは、自信を失い、伝道旅行から、ひとり帰国してしまいましたが、バルナバは、彼と行動を共にし、彼を励まし、「役に立たないと言われたマルコを役に立つ人」にしました。

 私たちは、あの人は端にも棒にもかからないと思うことがあります。役に立たない人間とレッテルを貼ることがあると思います。しかし、役に立たない人など一人もいません。私たちも互いにバルナバのように働きましょう。隣人を愛し、隣人に仕えて、その人の能力を引き出し、その人の能力を開花させることができたらどんなに素晴らしいことでしょうか!



「神の命令と約束」 2019年6月のメッセージ
「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」(ヨシュア記1章2節3節)

「命令と約束」、これは命令と祝福と言い換えてもよいかもしれません。私は大学で体育会を経験しました。中学、大学と柔道を経験しました。大学の2年間は朝錬、昼錬、夕錬と1日に3回練習がありました。練習は厳しかったです。体育会というのは先輩の命令は、ほぼ絶対です。何でも「ハイ」「ハイ」と返事をしました。学内で会った時には必ず会釈をし、「チワス」と大きな声で挨拶をしました。しかし、先輩は後輩の面倒を見るのが暗黙の了解でした。どんな相談でも必ずのりました。とくにお金、費用については先輩が全部面倒を見ました。コンパは何次会までやっても先輩のおごりでした。先輩は命令しましたが後輩の面倒も見なければならなかったのです。

 神様も命令と約束をされます。でも神様は人間と違って真実な方ですから、命令をされれば必ず約束を守られます。人間のように命令だけして約束をおろそかにしたりはなさいません。まして裏切ったりはしません。

 エジプトの奴隷生活から解放され、40年間荒野を旅したイスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、いよいよ約束の地に入ろうとしたときです。指導者モーセは亡くなり、新しいリーダーにヨシュアが立たされました。約束の地の一歩手前まで来たときです。神様はヨシュアに「命令と約束」を与えました。それは、「行きなさい、それは与えられる」というものです。

 神様はヨシュアにイスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、イスラエルの民に与えようとしている約束の地に「行け」と命令され、それは「あなたに与える」と約束されたのです。この「与える」ということばはヘブル語では完了形で書かれています。神様の命令に対する約束は神様のご計画の中ですでに完了したと言っているのです。つまり「与えられた」と言っているのです。

 私たちの人生においてもいろいろな節目があります。卒業、進学、就職、転勤、結婚などがあります。しかし人生の節目はそれだけではありません。退職やリストラ、親しい人との離別、今まで健康であったのに長期入院を余儀なくされる、高齢になって施設へ入所される方もおられるでしょう。今直面しているのは、明るい節目でしょうか?厳しい節目でしょうか?しかし、私たちは、踏み出していかなければなりません。人生の節目から踏み出していかなければなりません。ヨルダン川を渡らなければならないのです。

 ヨシュアはモアブの草原からヨルダン川のかなたカナンの地を展望しています。私たちもこれからの人生を展望いたしましょう。これから多くの不安と困難があるかもしれません。しかし、安心してください。大丈夫です。私たちの置かれている状況は厳しくても、私たちが小さく、弱くても、神様にとって不可能なことはありません。神様はご計画の中で既に神様ご自身が成し遂げてくださったと言っておられます。まず第一歩を踏み出しましょう。第一歩を踏み出せば必ず第二歩、第三歩が出てきます。



「イエス・キリストの名によって」 2019年5月のメッセージ
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3章6節)

 m牧師は私が学んだ神学校の先輩牧師です。彼は青森県弘前市で育ちました。文学青年でした。東京大学大学院を終了後、ドイツ文学の研究者として文筆活動や翻訳活動をしていました。そんなある日、尊敬する父親がガンで亡くなります。その時に勃発した兄弟同士の相続争いに、mさんは怒りを抑えきれなくなってしまいます。初七日が終わって、兄弟同士、相続の話し合いがもたれた席で、何と彼は、木魚を叩くバチで兄弟全員を殴りつけようとしました。彼はパトカーを呼ばれ、留置所に入れられてしまいました。その時彼はどうしても怒りを抑えられなかったと言っています。その激しい怒りは1週間続いたと言っています。その後、兄弟とは絶縁状態になりました。 やがて、彼は酒に溺れてしまいます。そして妻を失い、子どもを失い、家庭は破たんしてしまいました。

 何とかしようと仕事を求めて他の県に引っ越しましたが、工場や現場での仕事はきつく、また無理をし過ぎて体調を崩してしまいました。何とか生活を立て直そうと上京しました。上野公園で荷物を置いたままトイレに入ったすきに、何とその荷物を取られてしまったのです。その中には虎の子の百万円の預金があった銀行の通帳やカードがありました。結局、手元に残ったのはポケットにあった2千円だけでした。やるかたなく上野公園のベンチに体を横たえてから、ホームレス生活が始まりました。

 それでも、何とかしてホームレス生活から抜け出そうとしてもがいていたある日、ショーウインドーに映った自分の姿をみて、「もう救われない。」と思ったそうです。その姿とは、埃と垢で赤黒く変色した自分の顔でした。このままではいずれ近いうちに死ぬだろう、という思いが頭の中をよぎりました。体力も落ち、普通の人なら10分で歩けるところを1時間かけ、まさにはうようにして、最後の力を振り絞り、上野公園内の炊き出し現場にたどり着いたのです。そこで、上野公園でホームレスの方への炊き出しをしていた教会の牧師との出会いにより、彼は救われたのです。

 彼は手足も体も萎えていましたが、それ以上に心が萎えていました。まさに彼は「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩いた」のです。彼は後に牧師の道に導かれました。日光オリーブの里でチャプレンを務めて、今、母教会の牧師として働いています。そして、彼は、月に一度上野公園でホームレスの人たちに炊き出しと聖書のメッセージを語り続けています。

 みなさんは、どのようなお考えで人生を歩まれているでしょうか?金銀は私にはない。金銀よりも大切なもの、それはナザレの主イエス・キリストであるとペトロは言っています。m牧師のように学歴は人を救いません。立派な家や財産も人を救いません。健康、家族、友人、これらは大切なものです。でも最終的には人を救いません。人を救うのはナザレの主イエス・キリストご自身です。人を本当に生かすのは、ナザレの主イエス・キリストご自身です。



「母の日」礼拝
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト記20章12節)

 人間の世界には、いろいろな愛があります。女性を(男性を)好きになる愛、兄弟同士の愛、仲間同士の愛、家族の愛もあります。しかし、母の愛ほど美しい愛はないといわれています。母の愛は、子どもに何か障がいがあっても、病気で体が弱くても、勉強が良くできなくても、親に恥をかかせるような悪いことをしても、変わることはありません。母の愛は、「何かをしてくれたから」、とか「こうなったから」とかいう交換条件は何もありません。無条件の愛に近いものです。

 フランスの有名な神学者は「神様はご自分の愛を地上に徹底させるために母を創られた」とさえ言いました。

 私が中学生のとき「村越吉展ちゃん事件」が起きました。村越吉展ちゃん誘拐殺人事件です。その犯人小原保の母親の手記にこう書いてありました。「村越様、ゆるしてください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。・・・保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。・・・保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。おまえはそれを考えたことはなかったのか。保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする。・・・どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。・・・」

 母はどんな子どもでも愛しています。

 聖書のみことばは、母だけではなく、父のことも書いてありますが、「敬え」とは「尊敬しなさい」「従いなさい」という意味です。神様は、父と母を「尊敬しなさい」「従いなさい」と言っています。それは父と母があなたを愛しているからです。神様に似た愛であなたを愛しているからです。そうすればあなたは長生きするようになると神様は約束しています。これは単に長く生きるという意味だけではありません。父と母を「尊敬し」また「従う」人は、長生きできるような性格になる。人に優しく、思いやりがあり、我慢する力をもち、広い心の持ち主になるということです。こんな幸せな人になりたいと思います。

 いつも私たちを愛している母と、その母を与えてくれた神様に感謝しましょう。



「ここにはおられない」 2019年4月のメッセージ
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカによる福音書24章5~6節)
 aさんは66歳で突然天に召されました。50年間のクリスチャン生活でしたが、わずか3日間の入院生活という、劇的な形で地上の生涯を締めくくられました。クリスチャンとしての半世紀は、身近な方が主のもとに導かれるように、ただただ、ひたすら労されたということです。その働きは誰もが認めるところでした。しかし、眉間にしわを寄せて、悲壮感を漂わせて頑張る生活ではなかったということです。いつも、にこやかに対応されるaさんであったというのです。献身的であったのに、それをおくびにも出さない秘密は何だったのでしょうか?

 その秘密は葬儀の時の挨拶で分かったそうです。aさんのご主人はこう言われたのです。「妻は、結婚38年間、いつも朝早く起きて、丸1時間、神との交わりの時を持っていました。そのリズムは、ほとんど変わったことがありませんでした」aさんの内面は、神の恵み、神の励まし、神の約束で十分に満たされていたのです。

 そんなaさんが激しい腹痛で緊急入院され、3日目に急性呼吸不全で、突然に天に召されたのです。あっという間の出来事に、医師は、死因は何かとご遺族に解剖を求められたそうです。解剖が許され原因が分かりました。腸重積による腸循環不全が、急性呼吸不全の原因であることが分かりました。

 しかし、そこに立ち会った医師は、不思議な感覚にとらわれたそうです。遺体は確かにそこに横たわっているのです。しかし、その穏やかな表情を見ると、その安らいだ表情を見ると、aさんの魂はもはやそこにはないと気づかされたというのです。

 主イエスは十字架上での死から3日目に復活されました。主の使いたちは婦人たちに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。」と言いました。aさんの魂もすでにそこにはなく、主イエスのみもと、天の御国に移されていたのです。もし、死に際して、感謝と希望を持ち、平安でいられたらどんなに幸いでしょう。

 栄華を極めたソロモンは言いました。「しかし、わたしは顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」(コヘレト2章11節)そして、彼は最後に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。」(コヘレト12章1節)

 今元気であっても、人は必ず死にます。そして自分の過ぎ去った日々を思い返し、死後の世界に思いを巡らす時が来ます。その時、自分の人生に感謝し、来るべき世界を望みつつ、平安のうちに地上の旅路を終えられる以上の幸いなことはありません。この幸いこそ主イエスによって与えられるものです。

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(この文章は上尾霊園教会墓地で行われたイースター墓前礼拝説教の一部です。)



「ナイアガラの滝の所有者の息子」 2019年3月のメッセージ
 昔、木村清松という日本を代表する牧師がいました。この方が、アメリカに行かれたときの話です。
ある日、木村清松は、ナイアガラの滝を見物に行きました。どうどうと大量の水が流れ落ちる大瀑布を見物していました。すると、彼の隣で見物していたアメリカ人が誇らしげに話しかけてきました。「おい日本人、お前の国にはこんなデッカイ滝はないだろう?」すると木村清松はこう答えました。「何を言うか。これは私の親父さんのものだ」

 びっくりしたのはこのアメリカ人、「お前はインディアンの子孫なのか?」「ハテナ、この男は日本人だと思っていたが、案外昔この辺を領地にしていた、インディアンの子孫か何かで、そう言うのかも知れない」と思いました。しかし、よく聞いてみると、この男は木村という日本人の牧師であることが分かりました。木村清松は答えました。「わが父は天と地を創造された全能なる神である。私はクリスチャンとなってからその子どもとさせていただいた。ゆえにこの滝も、わが父、天のお父様のものである!」

 木村清松のスケールの大きさにすっかり惚れ込んだこのアメリカ人、実はクリスチャンでした。「ぜひ来週の日曜日、私たちの教会に来て話をしてほしい」と願い出ました。木村清松が了承すると、彼は早速、新聞に集会案内の広告を載せました。見出しは「ナイアガラの滝の所有者の息子、わが教会に来たる!」その日、教会はあふれるほどの人々が押し寄せ、彼の説教を聞いたと言われます。

 私もジョギング中、七里総合公園を見て「これは私の父のもの」見沼自然公園を見て「これも私の父のもの」用水路沿いのサイクリングコース、見沼田んぼのロケーションを見ても「これも私の父のもの」大宮図書館、七里図書館、片柳図書館・・・「これらは全て私の父のもの」と思っています。神の支配されているものは全て「私の父のもの」です。そして、何よりも天にある栄光の富も「私の父のもの」です。神を信じる私たちは神の子ども、神の相続人です。「一切は私たちのもの」です。

 私はこれだけ持っている、私はこれだけ出来る、と自分を誇ったり、私はこの人に付く、あの先生に付くなど他人を誇ったり、そんなちっぽけなことにこだわって、一喜一憂する人生ではなく、木村清松のように、「すべては父なる神のもの。私はその息子であり娘である」という、スケールの大きい信仰の生涯を歩みましょう。

 私たちひとり一人は価値のある者です。どのくらい価値があるかというと、イエス・キリストのいのちと同じくらい価値があるのです。私たちは神の子ども、神の相続人です。自分の価値に気が付いた人は自分を尊いことに使います。神のために、隣人のために、きよいことのために、正しいことのために自分を使います。

「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」(詩編16編5節、6節)



「隅の親石になろう」 2019年2月のメッセージ
〈この方こそ、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。〉
(使徒言行録4章11節)
 主イエスは、人々に捨てられ、宗教指導者に捨てられ、弟子たちからも捨てられました。しかし、神はこの主イエスをよみがえらせ、「隅の親石」とされたのです。「隅の親石」とは建物の角に置かれる「土台の石」のことです。主イエスは人々に捨てられましたが、神によってよみがえらされて「教会の土台」「救いの土台」となられたのです。

 しかし、人々に捨てられ「隅の親石」とされるのは主イエスだけではありません。ペトロもヨハネも、主イエスと同じ道を歩み、人々に捨てられ「隅の親石」とされたのです。彼らは「初代教会の土台」となりました。神は、彼らによって初代教会を立て上げていったのです。神は、主イエスを信じる者は 誰でも「隅の親石」としてくださるのです。家庭の、学校の、職場の、地域の、そして何よりも教会の「土台の石」にしてくださるのです。

 明治16年、前橋で大きな火事「前橋大火」がありました。その時約1000軒の家が焼けたそうです。それで、この大火を起こした火元の調査がありました。その時4人の男たちが「住吉屋という店が火元である」と警察に訴えました。警察が調べたところ、確かに住吉屋の側が火元でした。それで、住吉屋の主人は何度も警察に呼ばれ、火の不始末の責任を問われました。でもその時に主人は家にいたので家の中から火が出たのではないと確信を持っていました。でも証言があったので不利でした。

 彼がいよいよ有罪になって刑務所に入らなければならない時に、一人の女の子が、「実は火は、住吉屋と隣りの家の間の路地から、最初に出ているのを見た」と証言してくれたのです。それで、住吉屋の主人は助かりました。

 しかし、巷の噂である「住吉屋が火元で1000軒以上の家を焼いて沢山の命を奪った」という最初の情報が町中に流れてしまいました。ですからもう商売を続けることは出来ません。家族は店をたたみ、夜逃げするようにその町を追われて行ったのです。

 住吉屋の主人は宮内文作さんという人です。宮内さんの心は収まりません。「あの4人のお蔭で私の人生はめちゃめちゃになった」「あの4人を殺して自分も死のう」とまで考えました。そして悶々とした時を過ごしていたのです。

 NYUZELESS ニューズレス 撥水 ビッグ 2way チェスターコート 定3.1万 オレンジ 1▲029▼90903k07そんな時、笛木角太郎という親戚のキリスト教伝道者が訪ねて来ました。この人は復讐を厳しく戒め、一冊の聖書を手渡しました。宮内さんはその日から聖書を読みはじめました。読んでいくうちにイエス・キリストの生き方に次第に心を奪われていきました。「こんな世界があったのだ。こんな素晴らしい世界があったのだ。恨みを持ち続けて生きるのも一生、それを赦してこころ軽やかに生きるのも一生」まさに、その時、イエス・キリストの十字架の出来事が
分かったのです。

「ああ、イエス・キリストはこんな私のために十字架で死んでくださった。だとすれば、私は人の罪を恨んではならない。赦さなければならない」そして宮内さんは神の助けにより犯人を赦すことが出来るようになりました。そして宮内さんはこの火事で親を失った子どもたちを集めて、孤児院をはじめたのです。

 そして、その火事から14年が過ぎたある日のことです。「すぐに来てください。あなたに会いたがっている人がいます」と言う人の後をついて、連れて行かれた先は宿屋でした。その一室で、ひとりのおばあさんが危篤状態でした。虫の息の中でした。「あなたが宮内さん、住吉屋のご主人ですか」「そうです」と答えると、「実は、私はもうすぐ死のうとしています。どうしても、これだけはあなたにお伝えしたいのです。今から14年前の火事は、私が火をつけたのです。あなたにはえらい迷惑をかけました。赦してほしい。ひと言あなたに謝らなくては私は死にきれません」と話されたのです。

 以前の宮内さんなら「お前が犯人か」と言って、その場はどうなっていたか分かりません。宮内さんは、穏やかに、イエス・キリストの恵みの世界、赦しの世界、愛の世界を語り、今は子どもたちのお世話をしていることを語りました。だから「安心してください」とおばあさんに語ったのです。おばあさんは臨終の床でイエス・キリストを受け入れ、とたんに穏やかな顔になって、息を引き取られたそうです。

 宮内文作さんは人々に捨てられ、あざけりを受けましたが、神は彼をよみがえらせ、孤児院の土台の石、現在の「上毛愛隣社」の土台の石、「隅の親石」としてくださったのです。

*宮内文作略歴
1834~1909年
明治時代の社会事業家
1834年(天保5年)1月25日生まれ。生地群馬県前橋市で経営していた旅館が明治16年焼失したのを機に、キリスト教に入信した。同25年上毛孤児院(現上毛愛隣社)同36年上毛慈恵会養老院(現前橋老人ホーム)を開設する。公娼廃止問題でも活躍した。1909年(明治42年)10月7日死去。76歳。



「毎日が神様からの贈り物」 2019年1月のメッセージ
 新しい一年がスタートしました。私たちは毎朝どのような気持ちでスタートしているのでしょうか。毎朝「新しい一日が与えられる」と感謝をしてスタートしているのでしたら素晴らしいと思います。そのような人は、毎日が神様からの贈り物となります。「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」(詩編118編24節)という気持ちになります。

 神様を信頼している人は、一日一日を感謝を持って受け止めます。聖書には365回「恐れるな」ということばが出てくるそうです。「喜びなさい」「楽しみなさい」ということばは800回以上あるそうです。一日1回「恐れるな」ということばに当たると2回以上「喜びなさい」「楽しみなさい」ということばに当たることになります。朝起きて、与えられている多くのことに感謝しましょう。何かが足りないより、何が与えられているかに目を向けていきましょう。

 フランスのパリにサイラスという機械を商売とする人がいました。彼は信仰の篤い人で、いつも聖書を懐にして、暇があれば聖書を読みふけっていました。世間の信用も厚く、手広く商売をしていました。
 ある土曜日、サイラスは社員たちを社長室に呼んでこう言いました。「みんな、よく働いてくれた。お蔭で店も繁盛している。明日の日曜日は十分骨休みをして、また来週しっかり働いておくれ。ついては、ここに右には聖書、左には銀貨がある。明日一日を楽しく過ごすために、どちらでも遠慮なくとっておくれ」そしてテーブルの上を指さしました。社員たちは顔を見合わせていましたが、その中の一人が「せっかくですから私は銀貨の方にします。聖書は結構ですが無学なので読んでも分かりませんから」と言うと社長は「よかろう。では銀貨15フラン(約2万円)上げよう」と言って渡しました。すると次の者も銀貨がよいというので、みな15フランずつもらいました。

 こうして最後にハンネという少年の番になりました。ハンネはまだ15歳でしたが、仕事に精を出すばかりか、病気で寝ている母を介抱している心優しい少年でした。「社長さん、私は聖書をいただきます。私は寝ている母に聞かせたいと思います」意外な少年のことばに社長は驚きましたが、一冊の聖書をとって少年に渡しました。ハンネは、この本には、いつもの社長さんの訓話の種が書かれているのだと思うと、嬉しくてたまらず、さっそく表紙をめくりました。すると中から50フランの金貨が出てきたのです。社長は驚く少年の手を抑え「これは神様からの贈り物だ。お母さんに何か買って上げなさい」と嬉しそうに言ったというのです。

 一日を楽しく過ごすために、「聖書か銀貨か」で聖書を選び、神様を信頼して、神様に感謝して、銀貨以上の金貨を、それ以上のものをいただいた人は沢山います。主イエスはこう言われました。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)
 パウロもこう言いました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(ⅰテサロニケ5章16~18節)

 私たちは、一日一日を、神様から与えられる特別な日として楽しみ喜ぶために、神様を信頼し、神様に感謝しつつ過ごそうではありませんか。「毎日が神様からの贈り物」です。



「ヒマラヤ山中の旅人」 2018年12月のメッセージ
 今から100年以上前、インドにサンダー・シングという人がいました。彼は若い時、キリスト教に反抗し、聖書を油に浸して燃やしてしまうほどでした。しかし、後に回心し、「インドの聖者」と言われるようになりました。

 ある時、サンダー・シングはヒマラヤ山中を旅していました。世界で一番高い山、エベレストのあるヒマラヤ山中を旅していたのです。どんな旅をしていたのか、それはイエス・キリストを伝える「伝道の旅」をしていたのです。サンダー・シングはヒマラヤ山中のある村を目指していました。初めての道なので道案内のガイドも一緒でした。

 冬のことでしたから、出発の朝から雪が降っていました。昼過ぎになると、相当な吹雪になってきました。雪も次第に深く積り、この分では夕方までに、目的の村まで着けるか危ぶまれるほどになりました。雪のため道ははっきりしません。なかなか前に進みません。なかなか歩みははかどりません。道半ばを過ぎた頃、サンダー・シングは何かにつまずいてしまいます。それは、何と雪に埋もれて倒れていた旅人でした。旅人が雪の中に埋もれて倒れていたのです。

 ガイドは言いました。「先を急ぎましょう。この人を救っていては、私たちが危険になります」「もう日が暮れます。この雪と寒さでは、私たちがまいってしまいます」「さあ行きましょう」ガイドは倒れている人をそのままにして、先を急ごうと言い張ります。サンダーはこの人を救うことを主張し、村まで一緒に連れて行こうと言いました。しかし、ガイドは言い張ります。「それは無理です。私たちが危ない!この雪では無理です!」と言って譲りません。

 結局、どうなったかというと、ガイドは自分の考えで、サンダー・シングと倒れている旅人を残して、先に村を目指して行ってしまいました。残されたサンダー・シングは困惑しましたが、倒れている旅人を抱き起し、顔をこすったり、手足をこすったり、体を動かしたりしてやった後、背中におぶって、とぼとぼと、吹雪の中を歩き始めました。2時間は歩いたでしょうか。もうあたりは暮れ始めていました。しかし村はまだ見えて来ません。

 重い旅人を背負ったサンダー・シングは、息を切らしながら、なおも必死で歩き続けました。もう先に行ったガイドの足跡も雪に消されて、はっきり見えません。かなり暗くなった頃、前方に一つの洞窟が見えて来ました。「あの洞窟に入って、一休みしよう」、残った体力を振り絞って、やっと洞窟にたどり着きました。

 すると洞窟のすぐ近くに、一人の人らしきものが倒れています。そばまで行って、よく見ると、紛れもなく、それは先に行ったガイドです。ガイドは、すでに凍死していたのです。

 サンダー・シングと旅人は洞窟で休んだのち、間もなく無事に、村にたどり着くことが出来ました。ガイドの死骸は、少し遅れて、村人たちによって収容されました。

 旅人を背負って歩いてきたサンダー・シングは、その男の体温と、重い男を背負ったことよって、自分の体が、ポカポカ温かく、凍死を免れたのです。自分中心のガイドは死にました。しかし旅人を救おうと努力したサンダー・シングは、旅人だけでなく自分も救われたのです。

 このお話は何を私たちに教えているのでしょうか?それは自分中心、自己中心では人間は生き残れないということです。私たちは、自分中心、自己中心では生きていけないということを教えています。

 聖書ははっきりこのことを教えています。
「罪の支払う報酬は死です」(ローマ書6章23節)罪というのは、何か悪いことをしたということだけではなく、神に背を向けること、神と向き合わないことです。つまり自己中心のことです。

「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ福音書25章40節)

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ福音書16章24節25節)

                 (参照文献「ナルドの壺」佐藤泰正著、日本キリスト教団出版局)



NYUZELESS ニューズレス 撥水 ビッグ 2way チェスターコート 定3.1万 オレンジ 1▲029▼90903k07「柔和な人々は幸いです」 2018年11月のメッセージ
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みなさんは「柔和」ということばをどう思われるでしょうか。「柔和」ということばはあまりはやりません。あまり使われていません。求められているものは、やはり「力」でしょうか。「知識」でしょうか。あの人は「柔和」である。というより、あの人は「力」がある。あの人は「知識」がある。そのように求めていないでしょうか。

 本屋の店頭に行っても、「成功の秘訣」「リーダーになるための条件」とか、「力」とか「知識」をどのように得るかという本が並んでいます。しかし「柔和」をテーマにした本はまず見当たりません。この世の成功読本ばかりです。「柔和」などと言っていたら社会から取り残されてしまいそうです。

 私は中学と大学の時柔道をやっていました。強くなりたい一心で柔道をやった訳ですが、それこそ出れば負けで、散々でした。昔「デルトマケ」ということばがありましたが、まさにその通りでした。そんな私が、痛快に思った技がありました。肩車いう技でした。大きな相手と組んで、いきなり相手の下に潜り込んで、太ももあたりをかかえ込んで、肩に担いで、投げ落とすのです。それは痛快な技でした。まさに「柔よく剛を制する」のことばの通りでした。

 昔、講道館に三船久蔵十段という人がいたそうです。三船十段が大男の中に入ると、小学生と間違えるほど小柄です。なんと身長159センチ、体重55キロです。しかし、白髪をなびかせ、いざ練習に入ると、それまで練習していた猛者たちはみな練習をやめたそうです。そして三船十段に釘づけされたそうです。「ステーン」「ステーン」と大男たちを投げ飛ばすのです。まさに「柔よく剛を制する」のことばの通りです。この三船十段には「空気投げ」という技があったそうです。お互いに組まず、体の接触がないのに、タイミングで相手を投げ飛ばすのです。本当に不思議な技です。実に見事に「バーン」「バーン」と弧を描いて大男たちが投げ飛ばされていくのです。これは今でもビデオで見ることが出来ます。

 一見優しそうに見える。普通に見える。いや弱そうにさえ見える。しかし、その内側に計り知れないしなやかな強さを持っている。これが「柔和」です。本当の柔道とは「柔和」をめざす道なのでしょう。私にはそのように思っています。

 聖書の詩編37編によると「柔和」とは「悪い人たちに苦しめられても、怒ることをしない、憤りを捨てる、いら立たない」心、しなやかな心を持ち「耐え忍ぶ」心だと言っています。

 私たちは何か問題が起こると、それをすぐに力によって解決しようとします。数の力によって、ことばの力によって、解決しようとします。ある人は裁判で戦って決着をつけようとします。最悪の場合は暴力と殺人です。かろうじて平和が保たれているこの時代に、本当に必要なものは何でしょうか?本当に必要なものは柔和な心です。私たちに本当に必要なものは力ではなく柔和な心です。

 主イエスは言われました。
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ福音書5章5節)



「人生は出会いで決まる」 2018年10月のメッセージ
 あるミッション系の大学の教授のお話です。この教授は名物教授と言われていました。この先生が学生時代のことです。先生は横浜の駅のプラットホームを急いで歩いていました。目の前に女性がいました。急ぐあまり、その女性と激しくぶつかってしまいました。当時の女性はよく袴をはいていたそうです。何と、その女性の袴の中に足を突っ込んでしまいました。そして、一緒に階段を転がり落ちてしまったのです。相手の女性には考えられない辱しめを与えてしまいました。その先生は顔を真っ赤にして謝り、家に逃げるように跳んで帰って行きました。

 次の日、まさかと思いましたが、何と同じ駅のプラットホームで、またその女性に出会ってしまいました。「昨日はごめんなさい」と謝りました。そして1週間ぐらいして、また同じ駅のプラットホームで出会ってしまい、「先週はどうもすいません」と謝りました。そして次の月も出会ってしまい「先月はどうも・・・」と言い、そのうちに親しくなり、今の私の妻はその袴の女性だということでした。

 どうでしょうか?「人生は出会いで決まる」と言われています。確かにその通りだと思います。「人生は出会いで決まる」と言ったのはマルチン・ブーバーというユダヤ人哲学者です。私たちの人生は出会いで決まります。今日、誰かとの出会いで、私たちの人生が決まるかもしれません。

 しかし、残念なことに、人間の出会いには、当たり外れがあります。必ずしも、よい出会いばかりではありません。しかし、イエス・キリストの出会いは確かです。イエス・キリストの出会いは、当たり外れはありません。イエス・キリストの出会いはその人の人生を永遠に決定します。このイエス・キリストを人生の土台とすれば、その人の盤石な人生の土台となります。

 前科3犯、合計約20年の受刑生活を過ごした人は、同じような悪い人たちとの出会いが沢山あったそうです。そしてその悪い人たちからさらに悪いことを学び、もっと悪くなっていったそうです。しかし、逮捕・留置が3回目の時、自分に絶望して自殺を考えていた時、どん底のところで、神様はクリスチャンと出会わせてくれたそうです。彼は今、刑務所の受刑者たちの更生を助ける「マザーハウス」を立ち上げました。

 イエス・キリストの出会いは確かなものですが、どうぞ、せっかく出会っても表面的な出会いで終わらないでください。あいさつ程度で終わらせないでください。自分の親友のように、腹を割って、裏も、表も、全てを見せるような出会いをしてください。

 イエス・キリストは言われました。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
(マタイ福音書7章24~27節)



「義に飢え渇く」 2018年9月のメッセージ
 いつだったでしょうか。私は無性にサンマが食べたくなりました。何故だかわかりませんが、近所でサンマを焼くにおいがしたからでしょうか。秋だったのかもしれません。「食欲の秋」だったのかもしれません。脂が乗り、あの香ばしい煙と、大根おろしがとても恋しくなりました。それまで私は牧師館では魚は焼いたことがありませんでした。ですから焼く網がありません。車で近くのスーパーまで行って、焼く網とサンマと大根を買ってきました。あの焼いた時の感動、煙の出た時の感動、そして、食べた時の感動、おいしかったです。おいしいと思っていただけることは感謝なことだと思います。

 外国旅行に1週間ほど行っていると、ある時ふと、無性に日本食が食べたくなります。おにぎりが食べたい。味噌汁が飲みたい。そのような時があります。そして日本に帰って来て食べる日本食はまた格別です。

 これは一つの飢え渇きかもしれません。しかし、どうでしょうか。飢え渇きの内容から考えると序の口です。生きるか死ぬかの飢え渇きに比べたら遊びのようなものです。戦争を体験された方は、本当の飢え渇きをよく知っておられます。その恐ろしさをよく知っておられます。戦争中は口に入るものは何でも食べたと聞きます。サツマイモではなくサツマイモのつるを、カボチャではなくカボチャの葉や茎を食べたそうです。野の草を食べたそうです。

 ところが、今の世の中、私たちが、本当に飢え渇くことはまずないと思います。町の中を歩いていれば、目をつぶっていてもコンビニや自動販売機にぶつかる時代です。ですから、この飢え渇くということが、私たちによく分からなくなっているのです。それは、いつも満ち足りているからです。そうするとどうなるのでしょうか?本当のおいしさが分からなくなります。本当の有り難さが分からなくなります。本当の感謝、感動、満たされたという喜びがなくなってしまいます。

 飢え渇きがなくなった世界、それは何と有り難い世界でしょう。世界には飢餓に苦しんでいる沢山の人がいます。その人たちは救われなければなりません。しかし、飽食の時代、物が有り余っている時代、そこには大きな落とし穴があることを忘れてはなりません。簡単に言うと、飢え渇きがなくなると、人間らしさがなくなるということです。人間の本質が損なわれるということです。

 私たち人間が、人間として美しく、人間らしく生きる秘訣は何でしょうか?それは飢えと渇きです。そして、それは単なる飢えと渇きではありません。「義を求める」「義に飢え渇く」ことです。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
(マタイによる福音書5章6節)

 主イエスのことばです。義に対する飢え渇き、これを無くしたら、私たちは本当の意味で人間らしさをなくしてしまうのです。
(*義とは正しさ、正義であり、暖かさ、あわれみです。)



「土台の上に建て上げる」 2018年8月のメッセージ
「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」(ⅰコリント3章10~13節)

 パウロと言う人は家を建てるときには二つのことに注意しなさいと言っています。ひとつは土台です。もう一つは土台の上に建てられる家の材料です。土台と土台の上に建てられる家の材料に注意しなさいと言っています。

 私たちの人生にも土台があります。もし、砂のような土台、うつろいやすい土台、確かでない土台を土台としたならばどうでしょう?その時は大水に流されてしまいます。主イエスが言われたように岩を土台にしなければなりません。岩とはイエス・キリストです。

 

NYUZELESS ニューズレス 撥水 ビッグ 2way チェスターコート 定3.1万 オレンジ 1▲029▼90903k07

そして、パウロは、どんな材料を使って家を建てるかについて注意しなさいと言っています。金、銀、宝石、木、草、わら、これは家を建てる時の材料です。当時の人々はこれらの材料を使って家を建てていました。金、銀、宝石、これは永遠に残るものです。木、草、わら、これはすぐに失われてしまうものです。火によって、すぐに焼かれてしまうものです。

 私たちは土台の上に自分の人生を築き上げていきます。その築き上げてきた人生は、金、銀、宝石のように永遠に残るものと、木、草、わらのようにすぐに失われてしまうもの、焼かれてなくなってしまうものがあると言っているのです。

 NYUZELESS ニューズレス 撥水 ビッグ 2way チェスターコート 定3.1万 オレンジ 1▲029▼90903k07イギリスの昔ばなしに「3匹の小ブタ」というお話があります。お話のなかに「大ブタ」「中ブタ」「ちいブタ」が出てきます。大ブタはワラの家、中ブタは木の家、ちいブタはレンガの家を建てます。そこにオオカミがやって来ます。大ブタのワラの家は一瞬で吹き飛ばされます。中ブタの木の家はオオカミに体当たりされて粉々になります。追い込まれた2匹の子ブタはちいブタのレンガの家に逃げ込みます。風を起こしても体当たりをしても壊れない丈夫なレンガの家にオオカミは悩みます。「よし! 煙突から侵入してやろう」しかし、素晴らしいちいブタはオオカミの侵入を想定して、煙突からつながる暖炉で火をおこし、大なべに湯を沸かしていたのです!オオカミは見事に大なべに侵入、慌てて逃げていきました。
 ちいブタのレンガの家は「強度・ 防災・安全」といった、現代の住宅に求められている性能を予言しています。

 ところで、金、銀、宝石のように永遠に残るものとは何でしょうか?聖書にこういうことばがあります。
「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(ⅰコリント13章)
 金、銀、宝石のように永遠に残るもの、それは「信仰と希望と愛」です。これが金、銀、宝石のように永遠に残るものです。



「人生の土台」 2018年7月のメッセージ
 「ライオン」という会社をご存じでしょうか。洗剤とかハミガキを扱っている会社です。この会社の創業者は小林富次郎さんという人です。小林さんは、神戸のある会社にいましたが、東北地方の子会社に出向することになりました。そこはマッチを作る子会社でした。フランスから最新鋭の機械を導入し、マッチの材料となる木材を1年分川に貯めておきました。ところが、台風がやって来て、大洪水になり、川に貯めておいた木材が全部流されてしまいました。そして、その材木が下流にあった橋を次から次へと壊していったのです。

 当然のことながら賠償問題が持ち上がり、小林さんは大きな負債を負うことになりました。責任を取って死ぬしかないと考え、ある時、橋の欄干をまたいで飛び降りようとした時、聖書のひとつのことばが響いたそうです。このことばは小林さんが洗礼を受ける時に牧師からいただいた聖書のことば(へブル書12章11節)だそうです。

 その後、小林さんは私財を全部処分し、裸一貫ゼロから仕事を始めました。当時40を過ぎていましたが、東京で小さな石鹸工場を始めました。それがやがて「ライオン歯磨」となり現在の「ライオン」という会社の基礎となった訳です。小林さんの事業の土台はイエス・キリストでした。

 主イエスは、ある時、一つのたとえ話をしました。それは、家の建て方についてです。二人の人が家を建てました。外から見れば全く同じ家でしたが、土台が違っていました。ひとりは岩の上に家を建てました。もう一人は砂の上に家を建てました。完成してしまえば土台は土の中に隠れて見えません。ところが二つの家がどんな家か、試される日がやって来たのです。雨が降って来て、水があふれ、洪水になったのです。大水が押し寄せてきました。すると砂の上に建てられた家は、すぐに流されてしまいました。しかし、岩の上に建てられた家は流されることはありませんでした。主イエスは、あなたの人生もこの通りだと言われたのです。

 世の中のすべてのものには土台があります。草や木には根っこという土台があります。これがなければ根無し草です。学校には教育基本法という土台があります。車の運転には道路交通法というという土台があります。国には憲法という土台があります。建物にも基礎工事という土台があります。

 当然、私たちの人生にも土台があります。私たちの事業にも土台があります。もし、砂のような土台、うつろいやすい土台、確かでない土台を土台としたならばどうでしょう?その時は大水に流されてしまいます。主イエスが言われたように岩を土台にしなければなりません。岩とはイエス・キリストです。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
(マタイによる福音書7章24~27節)



「結婚の条件」 2018年6月のメッセージ
 結婚については、古来いろいろなことばがあります。「結婚は人生の墓場である」「結婚は誤解で始まり、あきらめで継続する」「結婚とは鳥かごの中の鳥のようだ。外にいる鳥はやたらに入ろうとし、中にいる鳥はやたらに出ようとする」なるほどと思わされます。そして「結婚したほうが良いのでしょうか、それともしないほうが良いのでしょうかと問われるならば、私は『どちらにしても後悔するだろう』と答える。」と言った哲学者もいました。

 かつて女性の結婚の条件として「3高」(高収入、高学歴、高身長)ということばがありました。現在では「3優」だそうです。「3優」とは、育児や家事をしてくれる「家族に優しい人」会話が面白く、浮気と無縁で「私だけに優しい人」そして仕事を頑張り、節約が得意な「家計に優しい人」だそうです。現在の女性の結婚の条件は、自慢できる好条件の男性というより、長い結婚生活を見据えて、協力して幸せな家庭を築いていける、頼れる男性へと移り変わっているようです。

 聖書は結婚について、結婚は、互いが、相手から奪い合うためにあるのではない!互いが、相手に与え合うためにある!そして、結婚は2人だけのものではなく、神を第一として、2人で力を合わせ、神と隣人に仕え、神の栄光を現していく。これが結婚なのだ!と言っています。「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。・・・ いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ書5章31~33節)

 私のギリシャ語の恩師、n先生がこういうお話をしてくれました。n先生はある友人から結婚の条件を聞いたそうです。この友人は結婚の条件として①自分よりキリストを愛する人②協調性のある人の2つの条件を上げたそうです。

 この友人は、あるキリスト教主義の女子短大の教師をしていました。ある日、講義が終わった後、ひとりの女子学生が彼のところにやって来ました。そしてこう言ったそうです。「先生、私の姉は適齢期を過ぎたクリスチャンですが、会ってもらえないでしょうか。」分かりやすく言うとこの女子学生は「自分の姉とデートしてください」「見合いをしてください」と言ったのです。彼は会うことにしました。その相手の女性は、何と救世軍の小隊長でした。教会でいえば小隊長は牧師です。彼は相手の女性が、普段よりドレスアップして現れるものと思っていました。ところが、彼女は救世軍の軍服姿で現れたのです。しかも、前の晩の奉仕の疲れもそのままでやってきたのです。彼女のその姿は、彼女が、いつ、どこにいても、キリストの兵士、キリストのしもべであることを証するものでした。彼はそのとき思ったそうです。「彼女は大変老けて見えたが、その軍服姿を見たとき、私の相手はこの人だと直感した」やがて、2人は結婚したのです。

 結婚の条件が、「自分よりキリストを愛する人」であるなら、キリストは必ずその人を最善に導いてくださるはずです。彼は後でこのようにも言っています。「クリスチャンに適齢期はありません。神がみこころである人を導いてくださったとき、それがクリスチャンの適齢期です。」

 NYUZELESS,ニューズレス,撥水,ビッグ,2way,チェスターコート,定3.1万,オレンジ,1▲029▼90903k07メンズファッション,コート·ジャケットこれから、結婚する人も、結婚生活何十年という人も、聖書の結婚の条件を黙想するならば、結婚は「人生の奥義」であることが分かるでしょう。



「温泉に癒しを思う」 2018年5月のメッセージ
 いつもよく行く日帰り温泉「iの湯」、新緑の木々に囲まれた露天風呂に浸る。きらきら光る木洩れ日を浴びて、湯けむりの中にいる。時々心地よい風もあって気分は爽快だ。温泉に浸っていると「癒し」を感じる。「癒し」とはこのようなものだろうかと思う。心と体がゆったりと休まる。とくに大きな仕事を終えて入る温泉は格別だ。何ともいえない安らぎを感じる。これは本当の「癒し」というものだろうか。

 温泉に入ってくる人々を眺める。さすが今は肥満体形の人は少ない。この人たちはどのような人たちなのだろうか。人は裸になると身分、地位、学歴は分からない。どのような生活をしているのかも分からない。善い人か悪い人かも分からない。神のみが全てを知っておられる。人が神のみ前に出るときもこのように裸にならなければならない。
 しかし、みんなこの温泉の「癒し」を受けている。気持ちよさそうにリラックスしている。中には目をつむり渋い顔をして温泉に浸り、「癒し」を受けている人もいる。

 現代は多くの人が「癒し」を求めている。癒し系の男子、癒し系女子、癒し系の音楽やグッズ、癒しのプログラム、様々な癒しが世にあふれている。教会にも「癒しのミニストリー」なるものが次々に現れている。神の与えてくださる「癒し」とは何だろうか。聖書に書いてある「癒し」と「救い」は同義語だ。同じギリシャ語「ソーゾー」は「救い」であり「癒し」なのだ。聖書のいう「癒し」とは「魂の救い」なのだ。
 旧約聖書のヨブ記に登場するヨブは神の前に正しい人であった。しかしある時、ヨブに災難が襲いかかった。彼は全財産を失い、家族を失い、自分の健康をも失った。「癒し」を求め、何故このような災難に遭わなければならないのか、不条理な災難を神に訴え続けた。ヨブが本当に「癒された」のは全知全能の神、創造主なる神に出会った時であった。その真理に圧倒されたヨブは、ただ神を見上げるのだった。

 心や体に傷を負っている人は「癒し」を求めている。「癒し」を神に祈り求めることは必要なことだ。その傷や疲れについて心を込めて話を聴き、一緒に「癒し」を祈り求めることは必要なことだ。
ただ本当の「癒し」は神ご自身と出会うことなのだ。聖書のいう究極の癒しとは神との正しい関係の回復にある。神から人生の意味と価値を教えられ、本当の生きる喜び「生きがい」を持つときにその人は本当に癒されるのだ。その人はどこから来てどこに行くのか知っている。

 日帰り温泉の「癒し」を受けつつ、本当の「癒し」を瞑想できる恵みを感謝したい。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
                                (マタイによる福音書11章28節)



「ここに愛がある その2」 2018年4月のメッセージ
 私は5年間、群馬の教会で、単身赴任の生活をしてきました。ひとりで生活してきた訳です。ひとりでの生活は「あ~解放された!」と初めは気楽でよかったのですが、やはり長い目で見ると大変です。何でもかんでもひとりでやらなければなりません。うっかり病気にもなれません。私は5年間、教会の礼拝と祈祷会を休まなかったのは奇跡だと思っています。そして最も大きな戦いは孤独との戦いでした。夜ひとりで仕事をする。日中もひとりで仕事をする。それは何とも言えない霊的な戦いです。

 ですから、息抜きのためにも2か月に1度は東京の家に帰るようにしていました。家に帰ると駐車場まで妻と息子が出迎えてくれました。妻は「ご苦労様でした」と言ってくれます。息子は「お父さんお帰りなさい」と言って荷物を持ってくれます。しかし、何故か娘は出迎えてくれたことがありませんでした。娘はたぶん出迎えるのが恥ずかしかったのでしょう。そして、私が家に入ると、娘は「パパ~おかえり」と言います。私はこの一瞬に癒されたのです。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きていけません。誰かを愛し、誰かに愛されなければ生きていけないのです。人はひとりでは生きていけないのです。

 しかし、この世の中に、本当の愛はあるのでしょうか。私たちに、本当の愛はあるのでしょか。本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるのでしょうか。
どんなに美しく愛し合っていても人間の愛には限界があると言われています。それは罪をもつ人間の限界です。

 人が、何故美しい花を愛するかというと2つの理由があると言われています。①この花に、美しいという「価値」があるからです。②この花が、自分を「満足」させてくれるからです。「価値」があって「満足」させてくれる、これはエロースの愛と言われています。エロースの愛は人間の愛です。価値がなくても、醜くても、自分を満足させなくても、たとえ自分に敵対しても愛する愛、これはアガペーの愛と言われています。エロースの愛は人間の愛ですが、アガペーの愛はそれを超えた愛、何の条件も求めない愛、無条件の愛、これは神の愛です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙ⅰ4章10節)

 聖書は「ここに愛がある」と言っています。十字架上に愛があると言っています。神はイエス・キリストを十字架につけてくださいました。私たちの罪のために十字架につけてくださいました。頭にはいばらの冠をかぶせられ、手足には釘を打たれ、わき腹には槍を突き刺された。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心でも、神と人に敵対さえしても、神はこんな私たちをも愛してくださいました。神はイエス・キリストを十字架につけてくださいました。それは、私たちの罪を赦し愛するためだったのです。



「ここに愛がある」 2018年3月のメッセージ
 「私は今、天国にいるようです」「私には子どもが4人います」「教会が小さいから子どもの数で勝負しています」「3人は女の子で、一番下が男の子です」「夕食のときには、みんなで一緒に食卓を囲みます。すでに結婚している娘は夫を連れて来ます」そして「私の妻の作る手料理をみんなで、ああでもない、こうでもない、と言いながらいただくのです」「たいがい娘は母親の味方をして、父親である私はいつもけちょんけちょんに言われっぱなしです」「しかし、私は、子どもたちに囲まれ、愛する妻がいて、とにかく私の今は天国です」「現実に今、こんなに幸せな生活を送っています」「天国があるとかないとか疑う余地がないのです」

 こう言ったのは誰かというと、私の恩師m牧師です。おいしいご馳走が並んでいて、家族が仲良かったら、どんなに幸せでしょうか。まさに天国かもしれません。ご馳走がなくても、家族が仲良く、平和であったら、それでも天国でしょう。旧約聖書の箴言には素晴らしいことばがあります。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17章1節、新改訳聖書)

 もし、食卓を囲みながら、言い争いがあればどうでしょうか。また一言も会話がなく、冷たい風が吹き抜けるようでしたらどうでしょうか。もし、そうであるなら、いくらご馳走があっても全然おいしくありません。私たちの心に平安はありません。父と母が、夫と妻が、仲が良いということはとても大切なことです。もし、そうでなかったなら、部屋の数だけ孤独があると言われています。もし、けんかをしても、家族を赦せなかったら、家族を愛せなかったら、それは切ないことです。悲しいことです。

 私たちの世界において、人間の世界において、一番大切なものは何でしょうか?それは何と言っても愛でしょう。そして、それは基本的には夫婦の愛だと私は思います。

 イスラエルのソロモンという王は言いました。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(箴言19章22節、新改訳聖書)ソロモン王は今から三千年前の人物ですが、人が必要としているものは、今も昔も変わりません。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きていけません。愛されて、また愛さなければ生きていけない存在なのです。私の恩師、m牧師は「一日一回は『アイラブユー』と言いなさい」と言われました。「嘘でもいいから言いなさい」と言われました。それは、夫を、妻を、ハッピーにし、勇気付け、お互いのセルフ・エスティーム(自尊心という意味です。自分を尊重する、大事にするという意味です。それがあると自分を価値のある人間と思います)を高めるそうです。そしてセルフ・エスティームの高い人ほど人生に成功すると言っています。「あなた愛しているわ」なんて言われると「妻を泣かすわけにはいかない」「やるぞー」と思う訳です。

 しかし、この世の中に本当の愛はあるのでしょうか?本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるのでしょうか?聖書は「ここに愛がある」(ヨハネの手紙ⅰ4章10節)と言っています。十字架上に愛があると言っています。神はイエス・キリストを私たちの罪のために十字架につけてくださいました。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心であっても、神はこんな私たちを赦し、愛してくださっているのです。



「年賀状大賞・手紙大賞」 2018年2月のメッセージ
 その他みなさんは年賀状のやり取りをされているでしょうか。私は中学生の時から、今に至るまで、年賀状のやり取りをしています。その中には高校を卒業以来一度も会っていない友もいます。ですから年賀状は音信を確認する唯一の手段でもあります。ある年、親しくさせていただいた方から年賀状が届きませんでした。案じていましたら、後日奥様から天に召されたとのお知らせを受けたこともありました。

 年賀状はいろいろなものがあります。中には印刷だけのものもあります。そんな年賀状は何か味気なく儀礼的な感じがします。でもそこに一筆なにか近況のようなものが書いてあると、それは「暖かい年賀状」になります。近況とともに「いつか会いたいですね」「また会いたいですね」なんて書いてあると「嬉しい年賀状」になります。何か励まされた思いになります。

 私は毎年、今年一番の年賀状というのを選んでいます。今年一番私の心を輝かせた一枚、私の心を震わせた一枚ということです。今年の「年賀状大賞」は大学で教えられているクリスチャンの先生のものです。年賀の挨拶に続いて「古希すぎし、メッキもはげて、生きやすし」とありました。思わず笑ってしまいました。この年賀状はユーモアと癒しに満ちていました。先生は古希を過ぎても、なお請われ大学で教えておられます。先生はさぞ楽しい一年をはじめられたことと思いました。クリスチャンは、やっぱり、主にあって、ありのままが一番生きやすいのでしょう。私もとうにメッキははげているのですが、髪の毛の方はまだ健在です。

 ちなみに昨年の「年賀状大賞」は98歳の田舎の長老からのものでした。98歳は私がいただいた年賀状の中では最高齢です。この信仰の先輩は昨年天に召されました。「こたつに当たり遠くの山を眺めています。友よ!また会う日まで!シャローム!」短い文ですが、大きな字で、行間を開け、力強く書いてあります。私のことを友と呼んでくださり、その愛と気迫が伝わってきました。今天国での再会を待っていてくださるのです。感謝なことです!

 ここで、聖書に登場するパウロのことを思い出しました。パウロは目を患っていました。患った目を「かっ」と見開いて、愛を込めて、聖書の中の手紙といわれる結びの部分を書きました。彼はガラテヤの信徒への手紙の結びの部分をこう書いています。
「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラテヤの信徒への手紙6章11節)

 パウロは目を患っていたので、パウロが書いた聖書の中の手紙はほとんどが代筆でした。彼が語り、そばにいた弟子がペンを走らせました。ガラテヤの信徒への手紙の最後の部分は、単なる挨拶ではなく全体のまとめであるとも言われています。パウロは、手紙の最後の部分は自らが筆をとり、子どものように大きな字で、不自由していた目を大きく見開き、これを書きました。ここに、パウロの愛とこの手紙にかける気迫が伝わってきます。聖書におけるパウロの手紙こそ、まさに「手紙大賞」でしょう!

 あなたも「手紙大賞」であるこの愛の手紙を読んでみませんか!

                           (この文章は「トラクト」からの転載です)



「箱根駅伝から」 2018年1月のメッセージ
 お正月の楽しみは何と言ってもテレビでのスポーツ観戦です。サッカー、ラクビー、駅伝などどれも見たいものばかりです。最近の箱根駅伝はとくに面白いです。スピード駅伝と言われ、今までと速さが違います。それだけに調整がうまくいかなかったり、体調が悪かったりすると惨めな結果になってしまいます。
 何年か前、ある大学の有名選手が花の2区で疲労骨折を起こしリタイヤしてしまいました。本人もチームも、さぞ無念だったろうと思います。しかしうまく走れようが、走れまいが、選手たちの一生懸命さ、純粋さ、若々しさが箱根駅伝からは伝わってきます。箱根駅伝は、スポーツの持つすがすがしさと熱さが伝わってきて何とも言えない感動物語です。

 それにしても、スポーツで勝つためには、日々のトレーニングが大切です。ぜい肉を落とし、筋力をつけ、走り込み、体のキレをよくします。それだけではなく食事を含めすべての面で節制します。そして最終的にやることは、勝つためのイメージ・トレーニングです。選手の頭の中にはコースのすべてが入っています。どこが平坦で、どこが上りで、どこが下りか、コースは広いか狭いか、カーブはどこかなど全部頭に入っています。そして自分のスタミナ、スピードを考えどこをどう走るか考えておきます。どこまで巡航速度で行き、どこでスパートをかけるか、基本計画は頭に入れておきます。あとは本番での相手との駆け引き、相手が苦しそうだったら上り坂でもスパートをかける。団子状態なら最後の競技場のトラック二百メートルでスパートをかける。
 もし、本人の会心の走りが出来たならば、天にも昇るような思いでしょう。しかし敗れても出すものを全部出し尽くしたのなら、それはそれで深い満足感が与えられるはずです。

 私たちクリスチャンも体を鍛えることが大切です。良い働きをするためには体のキレが大切です。シャープでなければなりません。もちろん信仰の訓練も大切です。祈れること。いつでも、どこでも、祈れること。緊急事態でも瞬時に祈れることが大切です。聖書のみことばを毎日食べることです。みことばを味わい、瞑想し、口ずさみ、暗記する。必要なみことばがいつでも口から出て来ることです。そして感謝をすること。どんな時でも感謝が出来ることは大切なことです。感謝出来るためには喜びを見つける訓練が有効です。貧しい牧師家庭では、子どもたちに喜びを見つける競争をさせることがあると聞きました。素晴らしい訓練です。
 私たちもよい働きのための信仰のレースを走るのです。そしてゴールした時は、かつて活躍したビスマルク選手やジョルジーニョ選手のように大きな身振りで、神をたたえ、神に栄光をお返ししようではありませんか。私たちにも感動物語があるのです。

「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」(ⅱテモテ書2章1節、新共同訳)
「・・・あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。・・・私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。」(ⅰコリント書9章24節、26節、新改訳)

日本キリスト教団
七里教会
牧師 小林則義

 〒337-0016
 埼玉県さいたま市
  見沼区東門前295-13
 tel 048-685-3701
 fax 048-685-3701

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